タイトル

第1章:母との別れと守り人の謎

エピソード1: 母の異変

真桜は母・茂子の病室の隅で小さな灯火を頼りに看病を続けていた。茂子の呼吸は弱まり、頬はかつての美しさを失い、病に蝕まれた痕が浮き出ている。

「お母さま、大丈夫……。私がここにいます。」

震える声でそう言いながら、真桜は母の冷たい手をそっと握りしめた。
しかし、村人たちは家の外でささやき声をあげ、誰一人として近づこうとしなかった。

「あの家には近寄るな。天然痘だ。感染したら命はないぞ。」

「どうして平家の娘だけが看病しているんだ? 他に誰もいないなんて……。」

その声が聞こえるたび、真桜の胸に痛みが走る。しかし、彼女は振り返ることなく母を看病し続けた。
茂子はかつてその美貌で知られていた。彼女の柔らかな黒髪、凛とした瞳、そして優美な微笑みは、真桜の幼い心に永遠に刻まれている。 だが今、病の影響でその美しい顔は変わり果ててしまった。

「お母さま、あの頃のことを覚えていますか……?」

真桜は小さな声でそう尋ねながら、幼い頃に母と一緒に庭で遊んだ日々を思い出した。
茂子はうっすらと目を開け、かすれた声で答える。

「覚えているわ……真桜。お前が庭で折り紙をしながら、私に和歌を聞かせてくれたこと……あれはとても楽しい時間だった。」

「お母さま……いつかまた、あの庭で一緒に折り紙をしましょうね。」

涙をこらえながら、真桜は微笑んでみせた。
だが、茂子の目は再び閉じられた。村人たちの冷たい視線を背に、真桜はただ母の手を握り続けた。 自分には母を守ることしかできない――そう強く心に誓いながら。

エピソード2: 兄・国香の心遣い

夜更け、真桜が疲れた体を休める間もなく茂子の枕元に座っていると、そっと襖が開いた。入ってきたのは兄・国香だった。

「真桜、大丈夫か?」

国香は心配そうな目で妹を見つめた。

「兄上……私は大丈夫です。それよりお母さまが……。」

声を詰まらせる真桜に、国香は優しく肩に手を置いた。

「お前ひとりにこんな思いをさせてすまない。父上が何もしない分、俺たちが母上を支えなければならない。」

しかし、父・平高望の名を出すと、真桜の瞳に怒りが浮かんだ。

「父上は……お母さまのことを見捨てたんですね。」

「そうではない。」 国香は即座に否定した。

「ただ、父上は弱いんだ。母上が病に倒れたことで、自分の無力さに耐えられないのだろう。」

その言葉を聞き、真桜は黙り込んだ。
国香は母・茂子の穏やかな寝顔を見つめながら、声を低くして続けた。

「母上がどんなに弱っても、俺たちは家族だ。母上が旅立った後も、お前と俺でこの家を守る。俺が必ず……。」

そう言いながら、国香の声が震えた。それを隠すように彼は真桜から視線をそらした。
真桜はそっと兄の手を握りしめた。

「兄上がいるから私は大丈夫です。一緒に頑張りましょう。」

国香は静かにうなずき、妹の決意を感じ取った。その表情はどこか悲しげだったが、どこまでも優しい光を湛えていた。

エピソード3: 白妙の出現

灼熱の太陽が村の土埃を照らす午後、静寂を破るように一人の女が現れた。その姿は異様だった。白い面をつけ、飾り気のない白い衣をまとった女。彼女の登場は、一瞬にして村全体を凍りつかせた。
「あれは…何者だ?」
村人たちが互いに目を合わせながら囁き合う。誰一人近づこうとしない。白面をつけた女の無表情な面は、何も語らないまま、静かに広場を歩み続けた。
「守り人だって話を聞いたことがある…本当に病を鎮める力があるのか?」
村の老人が震える声でつぶやく。白妙の歩みは確信に満ち、誰もその道を遮ることができなかった。彼女の視線が村人の方へ向かうと、人々は恐れから後ずさりする。
「おい、あの家へ向かっているぞ…茂子様の家だ!」
その言葉に村人たちの間に動揺が走る。病が家全体に広がっているという噂の茂子の家。それでも白妙は一言も発することなく、その家へ向かい続けた。
「何も言わない…だが、病を鎮めてくれるかもしれない…!」
恐怖と希望が入り混じった感情が村人たちを包み込む中、白妙は家の扉の前で一瞬立ち止まる。その瞬間、村の空気はさらに張り詰めた。
「行くぞ、彼女はきっと母上を救うために…!」
真桜が内心で強く願う。しかし白妙は振り返ることなく、無言で扉を開け、家の中に消えていった。その後ろ姿にはどこか神々しさと冷たさが同居していた。
村人たちはその場で言葉を失い、広場はしんと静まり返った。ただ一つ確かなことは、彼女の到来がこれまでと違う何かをもたらすという予感だった。

エピソード4: 刻印の噂

夜が深まり、村の広場にかがり火が揺れている。静かな中、村の老人が語り始めた。
「白妙が施すという“刻印”について話しておこうか…。あれは、ただの印ではない。疫病を克服した者だけが授かる“神聖な印”なのだよ。」
村人たちはざわめき、真桜も話に耳を傾けた。老人の声には重みがあり、村中の視線が彼に集まる。
「だがな、全てがそう思うわけじゃない。あの刻印を“呪い”と呼び、恐れる者もいる。刻印を持つ者は、村から追放されたという話も聞いたことがある。」
一部の村人たちは顔を伏せ、祈るように手を合わせた。刻印への恐怖と敬意が交錯していた。
「本当に…その刻印が救いになるのですか?」
真桜が静かに問いかけると、老人は深い皺の間にさらに険しい表情を浮かべた。
「それはわしにも分からん。ただ、昔から疫病を抑える者は、何らかの“証”を持っていた。それが刻印なのか、それとも呪いなのか…。それを決めるのはお前たち自身だ。」
真桜はその言葉を胸に刻むように受け止めた。母の病と白妙の存在、そして刻印の真実。すべてが謎めいていたが、彼女の中には白妙に対する一抹の信頼が生まれつつあった。
「白妙さんは、どうしても悪い人には見えません…。きっとあの刻印には、何か意味があるはず。」
真桜の言葉に、老人は微かに笑みを浮かべる。
「そうかもしれん。お前がそう思うなら、その気持ちを大事にするがいい。」
夜空に満天の星が広がり、風が静かに吹き抜けた。その場に集まった村人たちは、刻印の噂に怯えながらも、どこか安堵の表情を浮かべ始めていた。

エピソード5: 母との思い出

真桜は、母・茂子の枕元に座りながら、過ぎ去った日々を静かに思い返していた。薄暗い部屋の中、茂子の弱々しい呼吸音だけが響いている。
幼い頃の記憶が鮮明に蘇る。母の手に導かれ、柔らかい和紙で鶴を折った日々——その温かな声が耳に響いてくるようだった。

「ほら、こうして折り目を丁寧につけるのよ、真桜。そうすれば鶴が空を舞うように美しくなるわ。」

真桜は幼い自分の手元を思い出した。母が隣で優しく教えてくれたあの日々。たった一羽の折り鶴が、まるで宝物のように感じられた。
和歌の教えも忘れられない。

「言葉は、人の心を映す鏡よ。」

茂子は筆を持ちながら、穏やかな微笑みで言った。真桜が初めて書き上げた拙い歌を優しく読み上げてくれた時、母の声がどれほど誇らしげだったか。

「素晴らしいわ、真桜。この歌には、あなたの心が込められているもの。言葉の力を、忘れないで。」

茂子が教えてくれた「書の美しさ」。あの筆の流れる音、墨の香り、それら全てが真桜にとって心の支えとなっていた。
現在に戻る。弱り切った母の姿を前に、真桜の胸に溢れるのは、深い愛おしさと喪失の予感だった。

「お母様……。私、書を学び続けます。和歌も折り紙も、全部……忘れませんから。」

真桜の目からこぼれる涙を、茂子は震える手でそっと拭った。

「ありがとう、真桜……。あなたはきっと……大丈夫よ。」

茂子の言葉が消え入るように途切れた時、真桜は母の手をしっかりと握りしめた。
茂子との日々は、真桜にとってかけがえのない記憶として、永遠に心の中に刻まれることになるのだった。

エピソード6: 母の最期

薄暗い部屋の中、茂子の呼吸が徐々に浅くなる音が響く。真桜は母の手を握りしめ、その冷たさに涙をこらえられなかった。隣には兄・国香が静かに座り、目を閉じて母の最後を見届けようとしている。

「真桜……。」

弱々しい茂子の声がかすかに聞こえる。真桜は顔を近づけ、母の口元に耳を傾けた。

「人を……救うこと……それが、何よりも尊いことなのよ……。」

「お母様……。」

「あなたは……きっと、その力を持っているわ。言葉と、心……それを忘れないで……。」

その言葉に、真桜の目から涙が溢れ出した。

「お母様……約束します。私、絶対に忘れません。」

茂子の手がさらに冷たくなっていく。国香も静かに母の手を握り、そっと呟いた。

「母上……どうか安らかに……。」

その瞬間、茂子の呼吸が止まり、部屋の中に深い静寂が訪れた。
真桜はその場に崩れ落ち、声を上げて泣き始めた。

「お母様……お母様……!」

涙で頬が濡れ、嗚咽が止まらない。国香は無言で妹の肩に手を置き、ただ静かにその場に佇んでいた。
遠くからその様子を静かに見守る白妙の姿があった。彼女は何も言わず、ただ真桜の悲しみを受け止めるかのように立っていた。
母の死に立ち会うことができた真桜と国香。しかし、父・平高望はその場に姿を現すことはなかった。母を失った悲しみの中で、真桜の心には茂子の最後の言葉が深く刻まれた。

エピソード7: 白妙の儀式

火が夜空を赤く染め、焚かれた炎の中で茂子の遺体がゆっくりと消えていく。その炎は茂子が生前大切にしていた持ち物とともに、真桜との思い出さえも焼き払っていた。
真桜はその光景を見つめ、心の中に湧き上がる怒りと悲しみを押し殺せなかった。

「どうして……こんなことをするんですか!」

白妙の背中に向かって叫ぶ真桜の声は、火の音にかき消されそうになる。
白妙は炎の前に立ち、ゆっくりと振り返った。その表情には悲しみも怒りもなく、ただ冷静さだけがあった。

「これは救いなのです。」

「救い……?母との大切な思い出までも奪うことが、救いだと言うんですか!」

真桜の声は震えていた。胸の奥から湧き出る感情が止まらない。
白妙は静かに真桜に近づき、その目を真っ直ぐに見つめた。

「あなたの母上が遺したのは、物ではなく、その教え。記憶と想いこそが、本当の形見です。」

その言葉に、真桜は何も返せなかった。胸の奥にある怒りが静かに冷めていくのを感じる。
白妙は再び炎に向き直り、最後に一言だけ呟いた。

「感染を防ぐためには、この手段しかありません。」

そう言うと白妙は、炎を背にしてその場を去っていった。
真桜は立ち尽くしながら、燃え盛る炎の中に茂子との思い出を見ていた。涙が頬を伝い、手のひらに落ちていく。その夜、真桜の心には、消えることのない悲しみと共に、白妙の言葉が深く刻まれた。

エピソード8: 焼き印の理由

焚き火の近くで、白妙が真桜の腕をじっと見つめていた。彼女の視線が、真桜の腕に残る天然痘の痕に止まる。

「これでは君が周囲から差別され、迫害を受けるだろう。」

その声には悲しみと決意が混じっていた。
真桜は不安げに白妙を見上げた。

「そんなこと……母のことを知っていても、私は……」

白妙は彼女の言葉を遮るように小さく首を振った。

「守り人としての私の役目は、君を守ること。だから、この刻印を押さねばならない。」

そう言うと、白妙は熱せられた焼き印を焚き火から取り上げた。
真桜は目を見開き、一歩後ずさりする。

「そんなことしなくても……!」

白妙は優しく微笑みながら、真桜の肩に手を置いた。

「これは痛みではない。君を守るための証だ。」

その言葉に、真桜は小さく息を飲み、動きを止めた。
白妙は静かに彼女の腕を押さえ、焼き印を当てた。鋭い痛みが真桜の腕を貫き、彼女の体が震えた。

「痛い……でも……」

真桜の瞳には涙が浮かんでいたが、彼女は必死に声を抑えた。
焼き印を押し終えた白妙は、彼女の腕を包帯で覆いながら言葉を紡いだ。

「これが君を守る印だ。誰も君に触れられない。誰も君を傷つけない。」

白妙の声には揺るぎない信念が込められていた。
真桜は痛みに耐えながらも、その言葉に自分が背負う運命の重さを感じていた。母を失った悲しみと共に、自分が生きていく意味を少しずつ理解し始めていた。

エピソード9: 父・平高望の冷淡さ

茂子の葬儀が静かに終わり、夜が深まるころ、真桜は父の平高望が茂子の遺体に近づくことすらしなかったことに胸を痛めていた。

「なぜ父上は母上を見送らないのですか?」

真桜は声を震わせながら、父に問いかけた。しかし、平高望は冷たい視線を彼女に向けるだけだった。

「あの女が病に倒れたのは、家の恥だ。天然痘など、身の振り方が悪いからかかるのだ。」

彼の言葉は、真桜の胸に深い傷を残した。国香がその場に割って入る。

「父上、それは言い過ぎです!母上は私たちのために最後まで戦ったのです!」

だが、平高望は微動だにせず、肩をすくめた。

「何を言おうが、事実は変わらぬ。早く忘れろ。そして、お前たちも感染していないかどうか気を付けるのだ。」

真桜は父の冷淡な言葉に耐えられず、その場を去ろうとした。しかし、国香は一歩前に出て父を睨みつけた。

「私たちにとって、母上は恥ではありません!父上には理解できないでしょうが……。」

平高望は軽く鼻で笑い、部屋を出ていった。
真桜は涙を流しながら、国香に寄り添った。

「兄上、父上はどうしてあんなに冷たいの……?」

国香は彼女の肩を優しく叩きながら答えた。

「父上は、母上の本当の価値を知らないのだろう。だが、私たちには分かる。母上の強さも、優しさも、全てだ。」

真桜は兄の言葉にうなずき、涙を拭いた。
その夜、平高望は一人の家臣を呼び寄せ、密かに計画を練り始めていた。

「真桜を早く嫁がせる手はずを整えよ。これ以上、この家の汚名が広がらぬようにな。」

家臣は黙ってうなずき、去っていった。
真桜と国香は父の冷酷な態度に深い失望を覚えつつも、茂子の思い出を胸に、母を超える強さを持とうと誓いを立てるのだった。