春風が吹き抜ける中庭
新しい制服の袖を気にしながら、若菜は窓の外に目を向けた。中庭では、元気よく遊ぶ生徒たちの姿が見える。しかし、自分がその輪に加わる姿は想像できなかった。
「若菜、聞いてる?」
前の席から身を乗り出して話しかけてくる千夏に、若菜ははっとして顔を上げた。
「あ、ごめん。何の話だっけ?」
「もう、聞いてよ! 放課後、部活見学行こうって話!」
「部活見学……どの部活を見に行くの?」
「書道部! なんかね、すごく雰囲気がいいらしいよ。それにね、リーダーの先輩が超優しいって!」
「書道部……」
若菜は小さくつぶやいた。和歌が好きな自分にとっては、書道部はどこか惹かれる場所だった。けれど、見知らぬ場所に飛び込む勇気はなかなか湧かない。
「いいでしょ? 一緒に行こうよ! ほら、せっかくの新生活だし、いろいろ見ておかなきゃ損だよ。」
千夏の強引な誘いに押され、若菜は小さくうなずいた。
放課後、書道部部室
部室に入ると、墨の香りがふわりと漂ってきた。静寂の中で、先輩たちが紙と向き合い、筆を走らせている。その様子に若菜は息を呑んだ。
「こんにちは、新入生ですか?」
優しく落ち着いた声が耳に届いた。振り返ると、そこには背の高い先輩が立っていた。陽翔だった。
「え、あの……はい!」
若菜は緊張で声を震わせながら答えた。陽翔の柔らかな笑顔に、胸が高鳴るのを抑えられない。
「よかったら、ゆっくり見ていってね。書道、楽しいよ。」
そう言って陽翔は、隣の部員に軽く声をかけながら机に向き直った。その後ろ姿に目を奪われながら、若菜はなんとか笑顔を作った。
「若菜、どうしたの?」
千夏がにやにやしながら耳打ちしてきた。
「えっ、何も……!」
「顔真っ赤だよ~。もしかして、一目ぼれ?」
「ち、違う!」
必死に否定する若菜だったが、内心では陽翔の笑顔が頭から離れなかった。
その帰り道
「ねえ、若菜。どうだった?」千夏が満足げに問いかける。
「うん……すごく静かで、いい雰囲気だった。」
「でしょでしょ! それに、陽翔先輩ってすっごくカッコよくなかった?」
名前を聞いた瞬間、若菜はぎくりとした。
「……そうだね。優しそうだった。」
「ねえ、入部する?」
「まだ決めてないよ。でも、少し考えてみようかな。」
その夜、若菜は布団の中で何度も陽翔の言葉を思い返した。優しい声、落ち着いた振る舞い。あんな風に自然体で話せる人になれたら――そう思う一方で、陽翔が自分をどう思っているのかが気になって仕方がなかった。
翌日、教室
「若菜、おはよう!」
明るい声に振り返ると、そこには同じクラスの晃輝が立っていた。
「晃輝……おはよう。」
「あれ、元気ないね。昨日、千夏とどこか行ったの?」
「書道部の見学。結構、良さそうだったよ。」
若菜がそう答えると、晃輝は少し驚いた表情を見せた。
「へえ……そうなんだ。和歌好きだもんな。」
「よく覚えてるね。」
「そりゃ、覚えてるよ。昔、教えてもらったの、結構楽しかったから。」
若菜はその言葉に驚いた。自分が晃輝に和歌を教えた記憶がなかったからだ。
「あれ……そうだったっけ?」
「忘れてたの? まあ、いいけどさ。」
晃輝は少し拗ねたように肩をすくめた。その様子に、若菜はなんとも言えない申し訳なさを感じた。
「ごめん、思い出せないけど……晃輝は和歌、今も好き?」
「まあね。たまに作るけど、全然ダメだよ。」
「そんなことないと思う。今度見せてくれる?」
「うーん、考えとく。」晃輝がふっと笑った。